時計が5時を指している。窓の外の大阪の空は、いわし雲がちぎれて、すっかり秋の気配だ。
「今日は久しぶりに早く帰って、家でゆっくりご飯食べよう」
マリッジ・コンサルタントという仕事に打ち込めば打ち込むほど、誰かと誰かの幸せを描いて頭の中は24時間満杯になる。
それをちょっとだけ忘れて、我が家で家族揃ってご飯を食べる。それこそが優子にとって究極の贅沢のような気がするのだった。
「郁子さん、お先です」
「優子さん、帰れるときは帰ったほうがいいです。ここのところ、お疲れだったでしょう」
郁子が笑顔で見送ってくれた。他に残っている幾人かのスタッフからも「おつかれさま」と声がかかる。
それでもまだ重いバッグを抱えて受付のパンフレットの位置を揃えていた優子は、ふと人の気配を感じてエントランスのほうを見た。
「あのう... 」
そこに立っていたのは、白髪まじりの60代とおぼしき品のいい男性だった。
グレーのスーツに、シックな紺色のネクタイ。小さな茶色いかばんを小脇にかかえていた。
「はい。いらっしゃいませ」
優子は反射的にバッグを置いて、男性を迎え入れた。
エムロードは本人ではなく親からの申し込みも多い。
ひと目見て、自分の申し込みではない、おそらく息子さんか娘さんの申し込みだろうと、優子は察した。
「こちらへどうぞ」
郁子が対応を代わりましょうか、という顔を向けたが、優子は小さく首を振って、男性に笑顔を見せ、ブースに座った。
「あのう。実は私、同じビルの中の会社にいるもので、今日、定年なんです。ずっとこのエムロードさんのことは気になっておりまして。何やらけっこう頻繁に若い人が出入りしてはるじゃないですか。それも感じのいい人が多い... 」
「ありがとうございます」
「それで、お恥ずかしい話、息子の... 長男のことなんですが。今日お願いしにこようか、明日にしようかと思ううちに、今日、定年になってしまったというわけです」
優子はその父親の顔をまじまじを見た。唇の端が恥ずかしそうに下がっていたが、実直な目がこちらを見ていた。
「そうでしたか。いつでも歓迎いたしましたのに。もちろん、今からでも大丈夫です。ご子息様はおいくつになられますか」
「33になりますか。いや、お恥ずかしい」
聞けば国公立大学を出た公務員で、バイクに夢中だという。
「入会は親御さんの同意だけでしていただけますが、お見合いをしていただくにはご本人の意思が必要になります。もちろん私もがんばりますが、お父様も説得していただけますか」
「もちろんです。実は... 」
父親の顔が曇った。
「家内が肺がんを患っておりまして。もう長男のことだけが心配だと申すものですから。... その下に少し離れて女の子がおるんですが、そちらにはもう、約束している相手がおるらしいんです」
「そうでしたか」
父親はすぐにでも契約したいという。
普通なら再度来訪を勧めることもある。だが、この人はずっと迷いに迷ってこの日になってしまったのだ。
その思いを考えると、自然なことのように優子は思えた。
契約書には、長男のデータを書かなくてはならない。
父親はすらすらと、覚えてきたかのように、空欄を埋めた。
父・河西宣夫。母・久子。
長男・河西行宏。
「よろしくお願いします」
しかし後でよく確認すると、本人の年齢の欄に「60歳」と、堂々と書かれていた。
いやいや、そこはお父さんじゃなくて。
優子はくすりと笑ったが、切ない気持ちがこみ上げてきた。
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